鹿児島のPADIダイビングショップ|ラ・ボンバ

5月30日 2019年2月愛国丸の写真


梅雨入りも近くて、そろそろ雨の季節。今日も雨なので、3日坊主のブログ更新しなきゃ。。で、どっかで報告しなきゃと思ってた「愛国丸」の記録。

 

 ベッドから見る滝のような雨は、ちょいと憂鬱な気分になるんだけど、外が明るくなったから、しょうがない・・起きる。

 南太平洋の「チューク」75年前は「トラック」と呼ばれていた。そこの「春島」の朝。自分のロッジから、高さが15mもあるような椰子の木の下を通って、レストランに行くと、自分が最後・・あっちゃ、遅刻。

 飯食いながらの作戦会議で、今日のダイブを決める。午前の一本目は「愛国丸」に潜ることになった。

 『愛国丸」は水深60mくらいの砂の水底に着座する日本軍が徴用した貨客船だ。太平洋戦争末期に空爆で沈没したが、当時多くの将兵が乗艦していたとの記録が残っている。そんな悲しい歴史の船で、欧米人ダイバーにも人気だ。

 南国特有のバケツをぶちまけスコールは終わって、雲の切間からのぞく、もはや高くなった太陽を背に水深20mをさらに降りていく。エントリー直後からすでに艦は見えていて、最浅部は40mくらいで、ブリッジ上部だ。「愛国丸」は上から見た感じでは、ほぼ正立している。が、スターン(船の後部)から見ると少し右に傾いているようだ。

 この艦はブリッジ(艦橋)より前は吹き飛んでいて瓦礫だ。ブリッジと後部は綺麗に残っていて、鳥居型のマストや真っ黒に口を開ける船倉も見える。デッキ面で50mだ。

 数度目の「愛国丸」潜水。今日はチームメイトと少し離れて、最後部の船倉に入ってみようと思っていた。潜水計画では水深55mに15分滞在後、チームでまとまって減圧しながら水面を目指すことになっている。

 ブリッジ上部にとりつく、祭壇が設置されていて、いつもここには頭骨が安置されている。誰が持ってくるのかわからないが、頭骨の他は、ヤカンやら皿、酒瓶のかけらとか、船の奥から出してきた生活用品。

頭骨は誰だろう、この食器はどなたが使用。など頭を巡る。往時、使われていたものを見るにつけ、心が痛い。さらに、成仏しがたい念を感じないわけでもない。

 チームメイトが、ブリッジ下のダンスホールに入っていくのを見ながら、最後部の船倉へ急ぐ。タイムリミットまであと10分程度だ。

 

 

 

 

 ブリッジから最後部までは、約50m。透視度ギリギリで、ブリッジはけぶる感じに見えている。

 

 

 

後部船倉の開口部は、メインの船倉より狭く、とはいえ、5m✖️10m程度なので、入るには、特に問題はない。開口部に設置されたグリーチングを抜け、水平姿勢のままで、降りていく。内部は高さ10mくらい、入り口より広くなっていて、前後に10m、横に10m、深さは7−8mといったところで、開口部以外は上下二段に別れている。最大水深55m計画なので、上段より下には行けないことになる。

 開口部から、船倉上段に入っていくと、光が屋根に遮断されて真っ暗になる。沈船の中では、水中の付着物(動物、植物等いろんな生物たち)のために壁や天井に凹凸ができて光が反射しないから海面からの光の届かないところでは真っ暗になる。

 

 

 LEDを点灯すると船倉上段の床面には75年分の塵が分厚く溜まっていて、自分の僅かな動きでも、軽い細かな沈殿物はフワッと舞う。

 沈殿物が僅かに盛り上がっているところに手を突っ込んでみると、ちょっと硬いものが指先に触るので思い切って引っ張り出してみる。子供の頃に通った学校の理科準備室にあった人骨モデルの中でも一番大きな骨と当時は認識していた大腿骨らしきものを握っていた。もちろん、ここに人骨モデルは無いので、どなたかの遺骨であろうし、かつ同胞のものであることは間違いなかろ。

 遺骨の発見がチームメイトには秘密にしてる目的の潜水であるから驚きはしないが、やはり当時のうら若い青年の死を思うと胸が痛いことは間違いなく・・

 時間だ。浮上開始。

 遠い水面まで約1、5時間の長い減圧だ。ただ、大人しく呼吸を続けるだけなんだ。

 深度に合わせて、呼吸ガスを変えることと、急激に浮上しないことを一番に考えながら、戦後75年経って、いまだにご遺骨が回収されていないことの現状を思うと、敗戦って本当に辛いなということと、遺骨収集って、以前はよく行われていたけど、今は聞かないなーってことを考えてしまう。

         ゆっくりと近づいてくる水面は明るく、希望に満ちている。我々(2018年のダイバー)は上がれば、昼飯にありつくことができる。しかし、1939〜40年に沈んだ船に乗っていた青年たちは、未だ陽を見ることが許されない遺骨たちだ。まだ、これからも、ずーと暗い、もはや動くことのない船の中なんだ。

 

 

 

 ここに掲載の水中写真は、2019年に撮ったものです。陸の写真は2018年のものです。

 内容は2018年にいった時のこと。実は2018年は水中にカメラを持っていくことができなくて、お陰で、十分に色々考えることができたってわけです。

 で、最後は夕暮れの写真だけど、南の島の朝とか夕焼けってほんと、幸せな景色です。けど、この美しい太平洋の島々で、多くの同胞が死んだことを、誰も覚えてないことが、自分は哀しくて。。死んだ連中もおんなじ夕日を見てたのに。(このチューク環礁には、有名な「ジープ島」があります。年間、相当数の若者がジープ島に上陸しますが、トラックの大空襲のことは、ほとんどの人が知りません。)

 確かに日本は、真珠湾を攻撃して、アメリカ人は3000人死んだ。ここトラックでは、米軍の空襲で、1万人近く死んだ(愛国丸には2000人乗っていたという)その後、東京空襲で何人死んだ?そして、広島、長崎で何人死んだ?・・・。確かに、戦争はいけないってことは、よくわかる。でもなー、なんか納得できないのよね。日本貧乏くじ。